人類の敵 スキルス胃がん 後編

今回は、パンダ先生の病気の学校から「人類の敵 スキルス胃がん 前編 はたして早期発見できるのか」の続き、『人類の敵 スキルス胃がん 後編 ”闘いの歴史”』をご紹介します。

くわしくは、下の動画をごらんください。

なぜ今、逸見さんか?

当時人気絶頂のフリーアナウンサー・逸見政孝さんが「スキルス胃がん」に侵され、40代の若さで亡くなられてから、30年がたとうとしています(2022年10月現在)。胃がんの平均年齢は70歳以上といわれていますので、いままさに「逸見さん」と同じ世代の方々が、胃がんに罹患しつつあるのです。胃がん診療をしていると、しばしば「わたし、スキルス胃がんですか?」と聞かます。そして、逸見さんが行った、あの「衝撃の記者会見」を想像して心配している方も多くいらっしゃいます。

「スキルス胃がん」の怖さを身をもって、世に知らしめた逸見さんは、スキルス胃癌治療の歴史において、偉大な功労者です。逸見さんのような事例は、医学的な部分だけでなく、社会的な医療の本質を考えるうえで貴重なものとなりました。

病名を告白した「衝撃の記者会見」

「病名は、ガンです。」

これは、逸見さんご自身が、病名を公表した記者会見での言葉です。当時は、まだ「がんの告知」をしないケースも多くあり、本人が記者会見を行って自らの病名を公表したことは、大々的にメディアに取り上げられ、日本中に「スキルス胃がん」の病名が知れ渡るきっかけになりました

この伝説の記者会見は、日本中に強烈なインパクトを与え、30年以上たつ今でも多くの日本人の心に刻まれています。

この会見のあと、逸見さんは別の病院で再度手術を受け、抗がん剤治療も行いましたが、治療の甲斐なく、診断からわずか1年足らずで他界しました。

逸見さんの死後

逸見さんの死後、奥様の逸美晴恵さんは、治療経過、闘病生活、そしてあまりにも早い死について、当時の医療へ不信を隠さず、書籍を執筆したり講演活動を盛んに行い、がん治療への「願い」を発信し続けました。

  • がんの早期発見・・・とくにスキルス胃がんのような発見しにくいものを早期発見して、なんとか治る患者さんが増えてほしい。
  • がんの告知の問題・・・当時、7割くらいの患者が告知を受けておらず、晴恵さんも逸見さん本人に病態を伝えるべきか?最も苦しんだ問題について。
  • 医師とがん患者とのコミュニケーションの問題・・・医師と患者の間に認識のずれが生じてしまわぬように、改善できないか?

最愛の夫をを亡くし、深い悲しみがあったにもかかわらず、自分たちと同じように苦しく、つらい思いをする人が少しでも居なくなればと精力的に活動されました。

逸見さんの治療経過をたどる

逸見政孝さんと奥様の晴恵さんは、連名で書籍「ガン再発す」逸見さんが亡くならてから1年後には、晴恵さんが書かれた「二十三年目の分かれ道」を出版されています。

逸見政孝さんの会見や書籍など、ご本人たちが、発信されている情報をもとに治療経過をたどっていきたいと思います。

はじめの受診

1993年1月(47歳時)に、逸見さんは初めて病院を受診します。

  • みぞおちの痛みでかかりつけのM病院を受診(テレビ業界では有名な病院のようです)。
  • アメリカで内視鏡の権威と言われるS医師の診断を受けます。
  • 1cmくらいの初期の胃がんと診断されました。

ごく初期の胃がんですが、1cmくらいのものだから、

切除すれば治るでしょう。心配いりません。

逸見さんは、「胃がん」の診断にかなりショックを受けましたが、信頼するS医師の言葉を信じ、最初の手術に臨むこととなります。

診断から最初の手術

1993年2月4日、最初の手術がM院長によって行われました。ポイントは下記の通り。

  • 手術中に「スキルス胃がん」と判明。すでに腹膜播種の状態であった。
  • 手術後、本人には「胃を3分の2切除しただけ」と説明。
  • 奥さんと娘には「すでに腹膜播種があり、がんは取り切ったが、治る可能性は極めて低い。5年生存はゼロだろうと伝えていた。
  • 病名は「十二指腸潰瘍」と公表された。

無事、仕事復帰!

最初の手術のあと、逸見さんは再発の予防という名目で(実際には取り切れていない)、抗がん剤治療を行いながらテレビ復帰を果たします。抗がん剤治療は、内服と点滴を通院しながら行うものでした。このとき本人は、ほぼ治るだろうと楽観視していたと思われます。そして、周囲も順調に復帰しているものと思っていました。

腹壁の腫れ

ところが、手術から4か月たった6月頃、おへそのあたりから上の部分にかけて手術の創の部分の腹壁が硬く腫れはじめます。

  • このお腹の腫れは、がん再発の兆候でした。
  • M院長は「術後の通常の経過」と説明し、その後も十分な説明がないまま、8月に腹壁の腫れを切除する再手術を行います。
  • 結果は、家族にのみ「腹壁の腫れは、がんの転移だった。もう手が付けられない状態」と説明されました。
この腹壁の腫れは、胃がんの腹膜播種巣が大きくなったものと思われます。最初の手術で、播種があったので、それが大きくなってきたしまったのでしょう。おそらくM院長は、最初からその状態を認識していたものと思われます。

信頼する医師への不信感

当初、逸見さんはM院長とS医師に絶大な信頼をおいていて、医者を変えることを断固として受け入れませんでしたが、しかし、以下のようなことがあって、次第に逸見さんは医師への不信が募っていきました。

  1. 腹壁の再手術の時にM院長が、夏休みを取っていて、執刀しなかった。
  2. S医師がアメリカでの食事療法を勧めたので、渡米の準備をしたのに、急にキャンセルされた。
かたくなに病院を変えることを拒んだ逸見さんに対して、奥さんの晴恵さんは病院を変えてほしいと土下座して頼んだと回顧しています。最終的に、家族や知人の再三の勧めで、他の病院を受診することを受け入れました。

運命の医師との出会い

そこで、受診したのが東京女子医大の羽生富士夫教授でした。羽生教授は、がんが広範囲に広がっている非常に厳しい状態であることを検査で確認しました。手術を行うにあたり、以下のような旨の内容を伝えていたようです。

  1. お腹を開けてみて切り取れないと判断したら手術は中止する。
  2. 見える「がん」がすべて取り切れないとしても、治るかどうかは神のみぞ知る
  3. 経験上、治った患者もいるので、挑戦する価値はある。
  4. やらなければ、もうすぐ腸閉塞となり、3か月の命である

現在の知見をもってしても、この時点での「余命3か月宣告」は妥当な予測でしょう。この面談の後、逸見さんは、息子さんへのお手紙に、「生死は五分五分だ。」と書いていました。しかし、羽生先生は、五分の勝算があるものとは思っていなかっただろうと思われます。ここで羽生先生と逸見さんとの間に認識のずれが生じていました。

先生にお任せすれば、私は助かりますか?

それは、わからない、神のみぞ知る、です。

あなたが、がんと闘うという強い決意で臨むなら私たちスタッフは

全力を挙げて取り組みます。

そして、あの「伝説の記者会見」が行われました。。。

会見から10日後に3度目の手術

逸見さんは1993年9月16日に3度目の手術に臨みます。「伝説の記者会見」から10日後のことでした。ポイントは下記の通り。

  • 東京女子医大、羽生富士夫教授による手術
  • 13時間(切除5時間、再建8時間)かかる大手術
  • 22か所の再発腫瘍、腹膜、残胃全摘術(切除検体は3kg)
  • 腹壁の欠損が大きく、形成外科の野崎教授による腹壁・腹膜の修復術を行った

羽生先生は、決して「治る」とは断言していませんでした。もちろん、治る可能性を捨ててはいなかったと思いますが、確率が極めて低いことは認識していたと思います。手術の目的は、根治というより、今後の腸閉塞を予防して、少しでもいい状態が長く続くように、と願って手術を行ったと思います。5か所以上の吻合を行って大きな合併症がなく、この複雑な拡大手術をわずか5時間で終えた技量は素晴らしいの一言に尽きます。

外泊直前に、腸閉塞に・・・

長時間に及ぶ大手術でしたが、徐々に回復し、10月23日(手術から5週間後)に外泊の予定でした。しかし、外泊予定の直前に、腸閉塞になってしまいます。

  • 外泊予定を見送り、治療するも改善はみられず。
  • 鼻からチューブを入れて治療しつつ、11月には抗がん剤投与も実施。
  • 次第に全身状態が悪化し、年内持たないといわれる。
1993年12月25日、帰らぬ人となりました。診断から、わずか11か月の死でした・・・。

人気アナウンサーのあまりに急な死を受けて

逸見さんが亡くなられた当時、治療に関する報道がつづき「胃がんの手術はするべきだったのか?」「最後の抗がん剤はしない方が良かったのではないか?」など、好き勝手な論評が繰り返され、残されたご家族を苦しめました。

当時の疑問に現在の知見で答える

もっと早期発見出なかったのか?

半年ごとの内視鏡検査で早期発見できないことがある。

それが「スキルス胃がん」。

最初の手術で、胃を取るべきだったか?

現在の方針では、胃を取らずにお腹を閉じ、

できるだけ早めに抗がん剤治療を始めることが望ましい

3回目の手術と最後の抗がん剤は行うべきだったか?

30年前と今では、抗がん剤の進歩も状況が違うので、今ではまずやらない手術。

ただし、当時としては手術に期待するしかなかったかもしれない。

では、今ならもっと長生きできたか?

おそらく否。

手術で太刀打ちできないことに変わりはない。

スキルス胃がんに特に有効な薬剤は登場していない。

スキルス胃がんの治療開発

スキルス胃がんの治療開発は、ここ40年ほどの間、臨床的にどのようなことが行われてきたのかを見ていきましょう。代表的な治療法を列挙しました。

  • 腹腔内化学療法・・・腹腔内にカテーテルで抗がん剤を投与する方法・現在、スキルス胃がんを対象に新たな臨床試験が開始されたばかり。
  • 免疫チェックポイント阻害薬・・・播種にも有効性は確認されているが、劇的な効果はない。
  • 術前+術後のサンドイッチ療法・・・抗がん剤を術前と術後に行う「術前化学療法」という方法で、大いに期待された。

術前化学療法は、ほとんど効果はなかった

「スキルス胃がん」の場合には、手術前に点滴で抗がん剤を行う、術前化学療法を行ってもほとんど効果がみられませんでした。術前の化学療法で、効果があったタイプの「がん」は予後が良く、反対に効果があまり見られなかったタイプの「がん」は、予後が悪いという結果が出ました。

現在のスキルス胃がんの治療は?

審査腹腔鏡を行い、播種が見つかったら、胃切除はしないで化学療法を行います。

  • 抗がん剤を3~6か月ほど実施し、再度、審査腹腔鏡を行う。
  • 抗がん剤が効いて、播種が完全に消えていれば、胃切除を行う。
  • 術後も抗がん剤を続ける。

手術の前に行った抗がん剤が効かない場合、手術をしても厳しい状況です。抗がん剤の効果あったか否かが、生命予後にかかわってきます。

逸見さんの死から20年後

逸見さんが他界されてから、20年後の2014年。今度は、31歳の女性キャスター黒木奈々さんが「スキルス胃がん」になってしまいます。専門病院を受診して、精密検査の早い段階で「スキルス」ではないかと分かり、当時の水準以上の良い治療を受けることが出来ました。

しかし、2015年9月19日に帰らぬ人となりました。手術から、ちょうど1年後のことでした。

外科は結果がすべて

「外科は、結果が全てです。」

逸見さんから黒木さんまでの20年間、Linitis Plastica型胃がんとの戦いにおいて、医学は全く結果を残せなかったといえます。逸見さんと違って、黒木さんの場合は、的確な診断と適切なタイミングで手術や抗がん剤を行うことが出来ました。当時の標準的な水準を超えた良い治療が受けられたと思います。しかし、それをもってしてもスキルス胃がんには、太刀打ちできませんでした。

医学の無力さを思い知る病気、それがスキルス胃がん

「スキルス胃がん」とは、私たちに医学の無力さを思い知らせる強敵です。逸見さんが亡くなられてから、30年経った今でも、この強敵に太刀打ちできていないのが現状です。悔しい涙を流した患者さん、忘れられない患者さんがたくさんいます。スキルス胃がんの根治に有効な治療法が確立されることが、私たち人類がこの強敵に打ち勝つ唯一の方法となるのです。

まとめ

今回は、パンダ先生の病気の学校から『人類の敵 スキルス胃がん 後編 闘いの歴史』をご紹介しました。

逸見政孝さんが亡くなられてから、30年以上。現在、医療の進歩により、難病とされる疾患でも克服できるようになってきています。しかし、「スキルス胃がん」の治療法はいまだ、確立しておらず、根治が非常に厳しいのが現状です。一人でも多くの命が救われますように。スキルス胃がんの闘いはまだまだ続いていきます。

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